すべては1972年ミュンヘン・オリンピックで男子バレーボール日本代表が金メダルを獲得したことから始まりました。
それまでバレーボール協会の機関誌で月に15000部から20000部くらいの発行部数だった「月刊バレーボール」は金メダル効果からか、毎月0が1つ多くつくような売り上げになり、好景気が到来したのです。
そこで次の雑誌という発想が当然起きてきて、いろいろと検討の結果、バスケットボールの雑誌を発行することとなりました。
「月刊バスケットボール」が生まれることとなったのです。
創刊号は1973年9月25日、10月号でした。その創刊号から担当させられたのは弱冠27歳の若き編集者の島本和彦でした。

放送席で解説を務める、島本和彦氏
中学から大学まで他の競技ではありましたがスポーツはやっていたのでその心は判っていても、バスケットボールに関してはまったくの素人。
知識の程度は赤ちゃんレベルでの船出でありました。周りの関係者の方々に色々お世話になりながら徐々にスタートしました。
雑誌の編集で一番大切なのはフィロソフィー。一般的には哲学と訳されることが多いのですが、ここではどのような雑誌を作るのかということになります。
何しろまったくの素人ですからどうしたら良いのか見当がつきませんでしたが毎月編集しているうちに勉強を積み上げ、アメリカのバスケ文化を参考にして、
将来、日本のバスケもアメリカの様な誰もが楽しめるような状態にしていく助けになればという方針としました。

バスケットボールの創案者、ジェイムス・ネイスミス博士
バスケットボールは1891年12月21日にマサチューセッツ州スプリングフィールドのYMCAトレーニングスクール(スプリングフィールド大学)でジェイムス・ネイスミス博士によって創案されたゲームです。
それだけに世界のバスケットボールの潮流はアメリカを中心に動いているといって過言ではありません。
もちろん、成長著しい日本のミニ、中学、高校の報道やナショナルチームの動向などもくまなく展開しました。

能代バスケミュージアム
そんな時、大いに戦力となってくれたのが親の仕事でアメリカで育った帰国子女の高校生や中学生でした。
その頃はメールもネットもありませんでしたから通信手段は手紙、たくさんの情報を送ってくれたものです。
彼らの通信で良く書かれていたのはバスケカードを楽しんだ事でした。最初はバスケにもあるんだ?程度だったのですが、僕の心の中にバスケ文化の大きな分野を占めるものになっていきました。
いろいろと教えてもらったものです。
文:島本和彦
「月刊バスケットボール」初代編集長。
NHK-BS放送でのNBAテレビ解説や、日本人記者として初となる現地でのNBA取材実施など、日本におけるNBA普及のパイオニアとして知られる。
また、「能代バスケミュージアム」の設立や、全国各地の高校バスケットボール部を取材するなど、国内バスケットボール界の発展にも尽力してきた。
バスケカルチャーに関わる品々の収集にも情熱を注ぎ、その膨大かつ希少なコレクションは他に類を見ない。