1998年10月29日は、Jリーグのみならず日本サッカー界にとって大きな衝撃が走った日だった。この日、都内で横浜マリノスと横浜フリューゲルスの合併が発表された。93年のJリーグ発足から横浜マリノスと同じ町を本拠地に、意地と意地をぶつけ合って戦ってきた、宿敵の横浜フリューゲルスがなくなるとは誰もが思っていなかった。
日産自動車からのファンであった私にとっても、考えられないことであった。当時のホームスタジアムであった三ッ沢球技場での横浜ダービーは、「横浜フリューゲルスだけには負けたくない」「横浜マリノスだけには負けたくない」という気持ちで選手だけでなくサポーターも燃えた。一つの町を二分する熱い戦いは、いつも緊張感に溢れ、本当に興奮した。92年のナビスコカップを皮切りに98年まで23試合を行い、横浜マリノスの11勝10敗2分けでほぼ互角の戦いだった。
Jリーグが発足して32年目。オリジナル10として当初から参入した横浜フリューゲルスへの思いも込め、今回のテーマにした。
前身は、1964年に創立した横浜中区スポーツ少年団。その後、全日空がサポートして、横浜トライスターを経て、全日空横浜サッカークラブ、全日空サッカー部と改称した。Jリーグ初年度は、日産で数々の栄光を導いた加茂周氏が監督に就任し、ソーンプレスの戦術は大きな話題となった。そして、何と言っても忘れられないのが、横浜マリノスとの合併が発表され、そのショックも大きい中でチーム一丸となって勝ち取った天皇杯優勝だ。清水エスパルスと決勝で勝負を決めたゴールを決めたのは、現ヴィッセル神戸の監督を務める吉田孝行選手だった。
横浜フリューゲルスも数多くの好選手を擁し、日本代表にも多くの選手を輩出した。まずJリーグ開幕当初は、何と言ってもMF前園真聖選手が大スターだった。鹿児島実高から1992年に横浜フリューゲルスに加入。その卓越した技術は圧巻だった。96年のアトランタ五輪でブラジルに勝利した「マイアミの奇跡」のU-23日本代表のキャプテンも務めた。もう一人はMF山口素弘選手。前橋育英高-東海大を経て、91年に全日空に入社した。巧みなポジショニングと頭脳的なプレーが光った。またブラジル代表でもプレーし、左足から大きく曲がって落ちるフリーキックの名手MFエドゥー選手も印象に残る。
その後は、何と言っても95年に奈良育英高から加入したGK楢崎正剛選手。ポジショニングに優れた安定感のあるGKで、横浜F・マリノスの川口能活選手と日本代表で激しく正GK争いもしたが、ワールドカップでは98年フランス大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会と4大会でメンバーに選出された実力者だ。合併後、名古屋グランパスに移籍したが、その後チームは移らなかった。メンバー登録に前所属チームの横浜フリューゲルスの名前がなくなるのを嫌ったと聞きた。彼の矜持の表れだと思う。
またMF三浦淳宏選手は、国見高、青学大を経て1994年に加入。FKの名手として名を馳せた。的確な位置取りと相手に仕事をさせない職人肌のプレーを見せたMFサンパイオ選手は、95年に現役ブラジル代表として加入して活躍した。
この中では、1996/97のJリーグカード楢崎選手の直筆サインカードが、5,000円~7,000円とオークションに出品されている。その他の選手は、Jカード、Jリーグチップスを含めて1,000円前後の価格だ。
トレカを集めるなら横浜フリューゲルスのユニフォームを着たプレー写真にしたい。なかなか入手困難だが、価格も手ごろだし見かけたら即買いしたほうがいいかも。
Jリーグの歴史の中で決して忘れてはいけないチーム。きっとカード一枚一枚が思い出になると思う。
文:Chief(ライター)
国内サッカーを中心にトレカの世界を長年に渡って見守って来た元スポーツ雑誌編集者。横浜F・マリノスサポーター。ラグビー、相撲にも造詣が深い。
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